哲学まとめるブログ

哲学や思想の文献をまとめる小峰輝久のブログです。考えたことはhttp://ishibashisharenokai.hatenablog.com/のほうに書いています。参考になれば幸いです。

カール・レーヴィット著『ヘーゲルからニーチェへ』 フォエンバッハについて

カール・レーヴィット著『ヘーゲルからニーチェへ』

目標:ヘーゲルからヘーゲル左派、マルクスへの流れをつかむ

 

〇フォエンバッハについて

 フォイエルバッハヘーゲルに学び、完全にヘーゲル哲学に慣れ親しんだが、若いうちからヘーゲル哲学への批判を行った。フォエンバッハは、ヘーゲル哲学の推進力でもあった絶対精神や絶対者を「ナンセンス」とし、ヘーゲル哲学の変革を試みたのだ。その力点はおそらくヘーゲルが大学に生活の面倒を見てもらったことによって無縁となった「生活」を捨象してしまっているという批判だった。

 哲学の前提であるはずの「感覚的直観」と切れてしまっているとフォエンバッハはヘーゲルを批判する。「自然としての感覚性・官能性が観念論によって「単なる」自然性に貶められてしまった」。その原因はヘーゲル哲学(というよりも近代哲学)がキリスト教神学をモデルにしていることによる。

 哲学は神学と同じように、さまざまな事物はいろいろなかたちで規定されており、その規定を否定して、無限なあり方(神や絶対者)に到達できる、という。しかし、これは過ちである。神や絶対者から始まるのではなく、死んでゆく人間という有限な現実のレベルからはじめなければならない。

 そのためには、まず自己の「思考」の前提である感覚を顧慮すること。次に、「自己」の思考の前提である共存する隣人を顧慮することである。

 そもそも肉体と精神は相互に関係している。フォエンバッハは、思想家というものは「彼の睡眠や飲食を規則化し、彼の胃や血液循環も間接的には彼の意志や職業に合わせて作り上げる」という。また、その精神も同時に「すでに無意識に彼の肉体によって定められているのだ」。このように、思考と感覚は相互に作用していることをヘーゲルは忘れているという。

 また、人間は「没性的な中性名詞的存在」ではなく、「アプリオリに」女性か男性として存在しており、その性差は身体だけではなく思考にも影響を及ぼしている。そして、人同士が会話することで「理念も浮かんでくる」。その両性が合一こそ「真理と普遍性の最初にして最後の原則なのだ」だから、「愛」が重要なのである。

 この原則の変更によって生じるのは、政治と宗教における哲学の立ち位置の変更である。哲学は政治となり、その政治は宗教にとって代わらなければならない。つまり、哲学による政治的世界観が宗教にとって代わらねばならないのだ。たとえば、貧しい人間が地上にいるならば、キリスト教徒が行うのは祈りの共同体を作ることではなく、「労働の共同体」を作ることなのである。「フォエンバッハは、政治化の必然性を、人間それ自身の信仰から引き出そうとする」。肉体が重要であり、隣人が重要なのだから、食事や飢えに注目するのは当然なのだ。