カール・レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』③
- 第二節
哲学について。
ヘーゲルにおいて哲学もまた宗教や芸術と同様に終わる。ヘーゲルは哲学史を三つの時期に分類する。第一期がターレスからプロクロス。第二期はキリスト紀元から宗教改革まで。第三期がデカルトからヘーゲルまでのキリスト教哲学。この最後に時期でヘーゲル自身が地上の世界と神の世界の宥和を思考において概念化したのだ。そして、哲学体系の最後の様態は絶対精神、すなわちキリスト教の精神である。ヘーゲルの哲学は哲学化した神学なのだ。ヘーゲルの哲学は世界を変革し若返らそうとするわけではない。「このような認識としての哲学は、「現にある事態」の承認であり、それとの宥和なのである」。
第三節『ヘーゲルにおける国家およびキリスト教と哲学との宥和』
ヘーゲルは『法哲学』で国家哲学として政治と宥和し、宗教哲学としてキリスト教と宥和した。つまり、ヘーゲルは現実を概念化したのだ。この点がマルクスの哲学を実現化すべきだという反論を食らうことになる。
だが、ヘーゲルは国家哲学で「真の国家などというのは、たんなる〈理想〉である、〈要請〉でしかない」といった意見に反対し、「真の哲学とは、「現前に存在するもの、現実的なもの」を把握することである。だからこそ…[中略]…決して存在することのないような理想国家を要請することではない」という。だから、ある種、現状維持的である。
ヘーゲルにとって、「国家の本性とは「現前する神的意志」である。つまり、精神が世界の現実の組織へと発展した形態である。それに対して、宗教としてのキリスト教は、精神の絶対的真理そのものを内容としている。それゆえ、国家と宗教は、キリスト教の精神の基盤の上で一致したものとなりうるし、ならねばならない」。それは当時のプロイセン国家を容認することになった。また、プロイセンもヘーゲルを容認したのだ。
ヘーゲル左派は、ヘーゲルのキリスト教哲学が終わったことを自覚し、国家とキリスト教を断固といて拒否する〈変革〉を宣言し始めた。