カール・レーヴィット著『ヘーゲルからニーチェへ』 フォエンバッハについて
〇フォエンバッハについて
フォイエルバッハはヘーゲルに学び、完全にヘーゲル哲学に慣れ親しんだが、若いうちからヘーゲル哲学への批判を行った。フォエンバッハは、ヘーゲル哲学の推進力でもあった絶対精神や絶対者を「ナンセンス」とし、ヘーゲル哲学の変革を試みたのだ。その力点はおそらくヘーゲルが大学に生活の面倒を見てもらったことによって無縁となった「生活」を捨象してしまっているという批判だった。
哲学の前提であるはずの「感覚的直観」と切れてしまっているとフォエンバッハはヘーゲルを批判する。「自然としての感覚性・官能性が観念論によって「単なる」自然性に貶められてしまった」。その原因はヘーゲル哲学(というよりも近代哲学)がキリスト教神学をモデルにしていることによる。
哲学は神学と同じように、さまざまな事物はいろいろなかたちで規定されており、その規定を否定して、無限なあり方(神や絶対者)に到達できる、という。しかし、これは過ちである。神や絶対者から始まるのではなく、死んでゆく人間という有限な現実のレベルからはじめなければならない。
そのためには、まず自己の「思考」の前提である感覚を顧慮すること。次に、「自己」の思考の前提である共存する隣人を顧慮することである。
そもそも肉体と精神は相互に関係している。フォエンバッハは、思想家というものは「彼の睡眠や飲食を規則化し、彼の胃や血液循環も間接的には彼の意志や職業に合わせて作り上げる」という。また、その精神も同時に「すでに無意識に彼の肉体によって定められているのだ」。このように、思考と感覚は相互に作用していることをヘーゲルは忘れているという。
また、人間は「没性的な中性名詞的存在」ではなく、「アプリオリに」女性か男性として存在しており、その性差は身体だけではなく思考にも影響を及ぼしている。そして、人同士が会話することで「理念も浮かんでくる」。その両性が合一こそ「真理と普遍性の最初にして最後の原則なのだ」だから、「愛」が重要なのである。
この原則の変更によって生じるのは、政治と宗教における哲学の立ち位置の変更である。哲学は政治となり、その政治は宗教にとって代わらなければならない。つまり、哲学による政治的世界観が宗教にとって代わらねばならないのだ。たとえば、貧しい人間が地上にいるならば、キリスト教徒が行うのは祈りの共同体を作ることではなく、「労働の共同体」を作ることなのである。「フォエンバッハは、政治化の必然性を、人間それ自身の信仰から引き出そうとする」。肉体が重要であり、隣人が重要なのだから、食事や飢えに注目するのは当然なのだ。
カール・レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』
目標:ヘーゲルから、ヘーゲル左派、マルクスまでの流れをつかむ
老年ヘーゲル派(ヘーゲル右派)と青年ヘーゲル派を区別したのはシュトラウスだが、この区別を通俗化したのはシュティルナーだ。ヘーゲル哲学では、老人とは次のような意味合いを持つ。つまり、老人は「真に統治に召された」人々で、個別的なことではなく普遍的なことに関心がある。青年は個別的なものにこだわり、未来を求めて変革を行おうとする人々だ。したがって、老人より無私の色合いが濃く、高貴な面構えをしている。しかし、その青年もしばらく経つと大人になり俗物としての生活に移行する。しかし、それは外側からの圧力によってではなく、理性的な必然性による。
青年ヘーゲル派はヘーゲルのように体系を立てて普遍を志向するのではなく、個別的なものを要求する。したがって、彼らの文章は「宣言文であり、綱領であり、そしてテーゼだった。それ自身としてまとまった内容の完結したものではなく、彼らの書いた学問的証明なるものは、いつのまにか、強力な影響を及ぼす宣言文となっていた」。それゆえ、その言葉遣いは激烈な論争調、大言壮語、ドラマティックになっていった。しかし、人格としては反対で、非常に正直な人々であり、自らの思い描くものの実現のためには自らの生活をも賭けていった。彼らは「変化と運動のイデオローグ」であり、ヘーゲルの弁証法的否定性(否定が物事を発展させるという原則)に固執し、「世界を動かすのは矛盾と反論である」と思っていたようだ。
彼らの生活は貧窮していたが、大学の職を求めもしなかった。大学のまともなポストを世話しようとする友人にフォエンバッハは「私をまともな存在にしようとすればするほど、私はだめな存在になります。この逆も正しいです。そもそも私は無であるかぎりにおいて、なにものかなのです」。これは大学に安住していたヘーゲルとは真逆である。ヘーゲルは大学の教員で国家の公務員であることと、哲学者であることが矛盾しなかった。ヘーゲルにとって「本質的なことは、この国家公民相互の連関のなかで、「それぞれ自己の目的に忠実であること」なのだ」。しかし、ヘーゲル左派はいまの世界から外に出ようとするか、革命的批判でいまの世界をひっくり返そうとした。
右派と左派、老人派と青年派における思想上の違いは、「ヘーゲル弁証法における〈止揚〉の概念の根本的両義性」だった。それは「現実的なものは理性的であり、また、理性的なものは現実である」というヘーゲル哲学の中心的なテーゼである。右派は、現実的なものだけが理性的であると主張し、左派は理性的なものだけが現実的となると主張したのだった。
そして、彼らのヘーゲル哲学の転覆は三局面に分けられる。
まず、フォエンバッハとルーゲはヘーゲル哲学を新しい時代精神に即して変革しようとした。第二に、バウアーとシュティルナーは哲学をラディカルな批判主義(バウアー)とニヒリズム(シュティルナー)に消滅させようとした。マルクスは市民的=資本主義を解体し、キルケゴールは市民的=キリスト教的世界を解体しようとした。どれもが、現実のヘーゲル、哲学、市民的世界を理性的にしようと努めたのだ。
カール・レーヴィット著『ヘーゲルからニーチェへ』
ヘーゲル学派は右派の老年ヘーゲル派と左派の青年ヘーゲル派に分かれる。これは哲学的な違いではなく、宗教と政治への立場の違いである。
青年派のルーゲが「老年ヘーゲル派のなかで最も自由な存在」と呼んだカール・ローゼンクランツをまず取り上げよう。ローゼンクランツはヘーゲル哲学を忠実に維持し、ヘーゲルが死んだいま行うべきはヘーゲル哲学の方法(概念化)を個別領域などに徹底してあてはめ遂行することだと述べている。一方、ローゼンクランツは青年ヘーゲル派のフォエンバッハやマルクスについて「時代の勝者であることをあまりに早く誇らしげに宣言したものの、結局は未来を作る力を失ってしまうことになるだろうか」と心配している。彼らは雑誌などを使ったつかのまの反論で、哲学の改革と革命を即興で行い、自分の名声をあらかじめ自分で作るような奴らだと言っているのである。
ルドルフ・ハイムは歴史に君臨していたヘーゲル哲学を相対化しようとした。「ヘーゲル哲学を彼の時代から歴史的に説明しようとした。」それはつまり、ヘーゲル哲学の終焉を論じるということであり、当然ローゼンクランツは「劣悪な気性」と論難する。ハイムにとって現代の課題はさまざまな技術的変化・政治的な変化がある「この未熟な時代に」体系を確立することではなく、「ヘーゲル哲学の歴史性を概念的に把握することである」。
ヨハン・エールトマンはいまや哲学よりも哲学史、文学よりも文学史が重要になると述べている。「ヘーゲル以降、体系的な哲学研究においても、歴史的要素が支配的となってきた。」現在では、哲学の歴史は哲学することと切り離せなくなったことであり、哲学の歴史の哲学的記述こそが、それ自身もう哲学的なことなのだと、エールトマンは主張する。
クーノー・フィッシャーは、ヘーゲルを進化の哲学者であるとした。ヘーゲルが歴史を無限の進歩の光に照らして把握した最初で、かつこれまでただひとりの世界的哲学者であると述べた。世界には問題があるが、それはヘーゲルの言うように、進化や無限の進歩が解決するだろうとフィッシャーは言う。だが、そこでの無限とは、ヘーゲルと異なっている。ヘーゲルはさまざまな出来事や現象を概念化していくというかたちで、「精神にあふれた無限性」のうちに出来事や現象を包んだ。しかし、フィッシャーの精神はただひたすら前に進んでいくだけの「悪無限」である。
老年派と青年派の境界にいるのがミシュレである。ミシュレにとって、いまの世界の問題はヘーゲルの「精神の哲学の枠内で解決可能と思われた」。だから、ミシュレは人間と神との宥和を現実にまで高め、それによっていっさいの生活関係にヘーゲルの原則(みな国家やキリスト教の中で自己を見つけること?)が可能となったとされる。
老年ヘーゲル派は哲学のあり方をみなヘーゲル哲学に基づいて解釈している。そして、ヘーゲルの宥和というものを前提として、少なくともヘーゲル哲学によって世界の問題は解決可能だと見る。だが、ヘーゲル哲学を転覆しなければ問題を解決しないと見たのが、マルクスをはじめとするヘーゲル左派である。
カール・レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』③
- 第二節
哲学について。
ヘーゲルにおいて哲学もまた宗教や芸術と同様に終わる。ヘーゲルは哲学史を三つの時期に分類する。第一期がターレスからプロクロス。第二期はキリスト紀元から宗教改革まで。第三期がデカルトからヘーゲルまでのキリスト教哲学。この最後に時期でヘーゲル自身が地上の世界と神の世界の宥和を思考において概念化したのだ。そして、哲学体系の最後の様態は絶対精神、すなわちキリスト教の精神である。ヘーゲルの哲学は哲学化した神学なのだ。ヘーゲルの哲学は世界を変革し若返らそうとするわけではない。「このような認識としての哲学は、「現にある事態」の承認であり、それとの宥和なのである」。
第三節『ヘーゲルにおける国家およびキリスト教と哲学との宥和』
ヘーゲルは『法哲学』で国家哲学として政治と宥和し、宗教哲学としてキリスト教と宥和した。つまり、ヘーゲルは現実を概念化したのだ。この点がマルクスの哲学を実現化すべきだという反論を食らうことになる。
だが、ヘーゲルは国家哲学で「真の国家などというのは、たんなる〈理想〉である、〈要請〉でしかない」といった意見に反対し、「真の哲学とは、「現前に存在するもの、現実的なもの」を把握することである。だからこそ…[中略]…決して存在することのないような理想国家を要請することではない」という。だから、ある種、現状維持的である。
ヘーゲルにとって、「国家の本性とは「現前する神的意志」である。つまり、精神が世界の現実の組織へと発展した形態である。それに対して、宗教としてのキリスト教は、精神の絶対的真理そのものを内容としている。それゆえ、国家と宗教は、キリスト教の精神の基盤の上で一致したものとなりうるし、ならねばならない」。それは当時のプロイセン国家を容認することになった。また、プロイセンもヘーゲルを容認したのだ。
ヘーゲル左派は、ヘーゲルのキリスト教哲学が終わったことを自覚し、国家とキリスト教を断固といて拒否する〈変革〉を宣言し始めた。
【哲学文献まとめるよ!】 カール・レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』
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今回は、カール・レーヴィット著の『ヘーゲルからニーチェへ』という本のうち、第一章「ヘーゲルにおける世界史と精神史の完成――歴史の終結」をまとめます。この章は、ヘーゲル左派やマルクスの思考の基盤となるところです。(以下引用はすべてレーヴィット)
- 基礎概念としての「世界精神」
「ヘーゲルにとって哲学の歴史は、世界の動きを横目にみて進む、世界とは無縁な別のできごとではない」とレーヴィットはこの文章を始める。要するに、哲学の歴史と世界の歴史は並行し重なり合っているということだ。では、どういうところに共通点があるのだろうか。ヘーゲルは「世界精神としての絶対者」が両者の歴史には貫かれていると述べている。ヘーゲルの中心概念だが、ここでの「世界精神」とはなんだろうか。『ヘーゲル辞典』を見てみよう。『辞典』によると「世界精神」とは「論理、自然、精神の体系全体を貫く根源的な実在」であり、「世界のうちに自己を現す」とされているものだそうである。しかし、よくわからない。が、ヘーゲルにとって、哲学の歴史と世界の歴史は「世界精神としての絶対者」が自らを実現していく過程だということはわかりそうだ。もう少し先に進もう。
レーヴィットは、この「世界精神」が「歴史にそなわる、いかなる条件もない絶対的な力」だとしている。そして、おそらくこの「力」はさまざまな矛盾や対立を乗り越えて統一していく力なのだ。なぜ、そんなことが言えるのか。レーヴィットは矛盾や対立などと言う言葉はまだ述べていないのに。しかし、「世界精神」は、いかなる民族においても「生の全体性」を表現しているとレーヴィットは述べており、『辞典』によるとその「全体性」なるものは次のようなものだからだ。ヘーゲルにおいては、「矛盾と対立はある「ひとつのもの」(絶対者)の異なる現れ」である。したがって、全体性とは、「部分や区分を内包した全体で、対立や矛盾の統一」のことである。要するに、「世界精神」はさまざまな歴史の中で生じる矛盾や対立を統一していく「力」でもあるのだ。
この「世界精神」という「力」の「弁証法的運動」は歴史の中で生きている。ここでの「弁証的運動」とは『辞典』によれば、「実在する対立・矛盾を原動力として変化・発展する事物の論理」に基づく「運動」のことであり、その「運動」の行き着く先は「絶対知」である。
この「絶対知」とは、『辞典』によると、「存在と思惟の一致」のことであり、それはどんな状態かと言うと、『辞典』によると、「存在と思惟の一致」は、「実体と主体の一致」と同じである、という。「実体と主体の一致」とは、自分が生きる世界をただすでにあったもの・与えられたもの(実体)ととらえずに、さまざまな人々の活動のなかで発展していくものとして把握し(主体)、しかも世界を普遍性(人権宣言など!)に即して形成していくことである(実体と主体の一致)。要するに、「世界精神」は人々の種々の活動によってさまざまな矛盾や対立を乗り越えて発展し、最終的に「普遍性に即して形成」された世界へといきつくのだ。それはたとえば、フランス革命の人権宣言などによって果たされたと見る。
そして、どのようにして「世界精神」は「絶対知」に行きつくかというと、(外面的には人々の様々な活動ということになっているが、)内面的には「かつて存在した精神のあり方をすべて想起すること」によってである。つまり、「たえず前進する中で自己を外部に表現しながら、また自己自身の由来・過去を想起するのが、この精神のあり方」なのだ。しかし、その発展も決して直線的なものではない。円環状になっており、「この運動の終結は運動の始まりの完成」なのであり、これが何を意味するのかと言うと、「終末における終結」である。
- ヘーゲルの歴史哲学
ヘーゲルは歴史の中で「世界精神」は発展するというのだから、もちろん歴史哲学がある。ヘーゲルの歴史哲学において重要なのは、「東洋における歴史の始まりであり、西洋におけるその終結である」。ヘーゲルの中では、まず中国、インド、ペルシャで精神(歴史)は始まり、ペルシャに対するギリシアの勝利を経て、ローマ帝国において継続し、最後は西洋北部のキリスト教的=ゲルマン的諸国家において終結するのだ。この歴史の運動の中で、「精神は激しい戦いを通じて、自由へと教育されてきた」。つまり、「オリエントは、たったひとりだけが自由であると認めていたし、そう考えている。ギリシア及びローマの世界では、幾人かが自由であり、ゲルマン世界は、すべての人が自由であることを知っている」(ヘーゲル)。
キリスト教の神こそが、はじめて真に「精神」であり、人間なのだ。「これによって、神的なるものと人間的なものとの統一性がようやく意識にもたらされ、神の似姿としての人間に宥和が生じた」。フランス革命とは、万人が自由であるとしたキリスト教の原理を世俗化したものであり、キリスト教を理性化したものである。しかし、これは厭うべきことではない。「キリスト教の起源を実定的に見えるかたちに実現することこそ、起源の真の展開なのである」。
ヘーゲルから見れば、教皇の権威から人々を解き放ったのがルターだった。そしてその前提に基づいてフランス革命がおこる。そして、このフランス革命のできごとにおいて、歴史の哲学が終結する。もちろん、さまざまな出来事もあるだろうし戦争もあるだろう。だが、フランス革命の〈概念〉を記述したヘーゲルによって、〈概念〉の歴史は終結した。