哲学まとめるブログ

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カール・レーヴィット『ヘーゲルからニーチェへ』

カール・レーヴィットヘーゲルからニーチェへ』

目標:ヘーゲルから、ヘーゲル左派、マルクスまでの流れをつかむ

 

第二章 二節 「青年ヘーゲル派によるヘーゲル哲学の転覆」

 

老年ヘーゲル派(ヘーゲル右派)と青年ヘーゲル派を区別したのはシュトラウスだが、この区別を通俗化したのはシュティルナーだ。ヘーゲル哲学では、老人とは次のような意味合いを持つ。つまり、老人は「真に統治に召された」人々で、個別的なことではなく普遍的なことに関心がある。青年は個別的なものにこだわり、未来を求めて変革を行おうとする人々だ。したがって、老人より無私の色合いが濃く、高貴な面構えをしている。しかし、その青年もしばらく経つと大人になり俗物としての生活に移行する。しかし、それは外側からの圧力によってではなく、理性的な必然性による。

青年ヘーゲル派はヘーゲルのように体系を立てて普遍を志向するのではなく、個別的なものを要求する。したがって、彼らの文章は「宣言文であり、綱領であり、そしてテーゼだった。それ自身としてまとまった内容の完結したものではなく、彼らの書いた学問的証明なるものは、いつのまにか、強力な影響を及ぼす宣言文となっていた」。それゆえ、その言葉遣いは激烈な論争調、大言壮語、ドラマティックになっていった。しかし、人格としては反対で、非常に正直な人々であり、自らの思い描くものの実現のためには自らの生活をも賭けていった。彼らは「変化と運動のイデオローグ」であり、ヘーゲル弁証法的否定性(否定が物事を発展させるという原則)に固執し、「世界を動かすのは矛盾と反論である」と思っていたようだ。

彼らの生活は貧窮していたが、大学の職を求めもしなかった。大学のまともなポストを世話しようとする友人にフォエンバッハは「私をまともな存在にしようとすればするほど、私はだめな存在になります。この逆も正しいです。そもそも私は無であるかぎりにおいて、なにものかなのです」。これは大学に安住していたヘーゲルとは真逆である。ヘーゲルは大学の教員で国家の公務員であることと、哲学者であることが矛盾しなかった。ヘーゲルにとって「本質的なことは、この国家公民相互の連関のなかで、「それぞれ自己の目的に忠実であること」なのだ」。しかし、ヘーゲル左派はいまの世界から外に出ようとするか、革命的批判でいまの世界をひっくり返そうとした。

右派と左派、老人派と青年派における思想上の違いは、「ヘーゲル弁証法における〈止揚〉の概念の根本的両義性」だった。それは「現実的なものは理性的であり、また、理性的なものは現実である」というヘーゲル哲学の中心的なテーゼである。右派は、現実的なものだけが理性的であると主張し、左派は理性的なものだけが現実的となると主張したのだった。

 そして、彼らのヘーゲル哲学の転覆は三局面に分けられる。

 まず、フォエンバッハとルーゲはヘーゲル哲学を新しい時代精神に即して変革しようとした。第二に、バウアーとシュティルナーは哲学をラディカルな批判主義(バウアー)とニヒリズムシュティルナー)に消滅させようとした。マルクスは市民的=資本主義を解体し、キルケゴールは市民的=キリスト教的世界を解体しようとした。どれもが、現実のヘーゲル、哲学、市民的世界を理性的にしようと努めたのだ。