哲学まとめるブログ

哲学や思想の文献をまとめる小峰輝久のブログです。考えたことはhttp://ishibashisharenokai.hatenablog.com/のほうに書いています。参考になれば幸いです。

カール・レーヴィット著『ヘーゲルからニーチェへ』

カール・レーヴィット著『ヘーゲルからニーチェへ』

目標:ヘーゲルからヘーゲル左派、マルクスへの流れを把握する

 

第二章 老年ヘーゲル派、青年ヘーゲル派、新ヘーゲル

第一節 老年ヘーゲル派におけるヘーゲル哲学の維持

 ヘーゲル学派は右派の老年ヘーゲル派と左派の青年ヘーゲル派に分かれる。これは哲学的な違いではなく、宗教と政治への立場の違いである。

青年派のルーゲが「老年ヘーゲル派のなかで最も自由な存在」と呼んだカール・ローゼンクランツをまず取り上げよう。ローゼンクランツはヘーゲル哲学を忠実に維持し、ヘーゲルが死んだいま行うべきはヘーゲル哲学の方法(概念化)を個別領域などに徹底してあてはめ遂行することだと述べている。一方、ローゼンクランツは青年ヘーゲル派のフォエンバッハやマルクスについて「時代の勝者であることをあまりに早く誇らしげに宣言したものの、結局は未来を作る力を失ってしまうことになるだろうか」と心配している。彼らは雑誌などを使ったつかのまの反論で、哲学の改革と革命を即興で行い、自分の名声をあらかじめ自分で作るような奴らだと言っているのである。

ルドルフ・ハイムは歴史に君臨していたヘーゲル哲学を相対化しようとした。「ヘーゲル哲学を彼の時代から歴史的に説明しようとした。」それはつまり、ヘーゲル哲学の終焉を論じるということであり、当然ローゼンクランツは「劣悪な気性」と論難する。ハイムにとって現代の課題はさまざまな技術的変化・政治的な変化がある「この未熟な時代に」体系を確立することではなく、「ヘーゲル哲学の歴史性を概念的に把握することである」。

ヨハン・エールトマンはいまや哲学よりも哲学史、文学よりも文学史が重要になると述べている。「ヘーゲル以降、体系的な哲学研究においても、歴史的要素が支配的となってきた。」現在では、哲学の歴史は哲学することと切り離せなくなったことであり、哲学の歴史の哲学的記述こそが、それ自身もう哲学的なことなのだと、エールトマンは主張する。

クーノー・フィッシャーは、ヘーゲルを進化の哲学者であるとした。ヘーゲルが歴史を無限の進歩の光に照らして把握した最初で、かつこれまでただひとりの世界的哲学者であると述べた。世界には問題があるが、それはヘーゲルの言うように、進化や無限の進歩が解決するだろうとフィッシャーは言う。だが、そこでの無限とは、ヘーゲルと異なっている。ヘーゲルはさまざまな出来事や現象を概念化していくというかたちで、「精神にあふれた無限性」のうちに出来事や現象を包んだ。しかし、フィッシャーの精神はただひたすら前に進んでいくだけの「悪無限」である。

老年派と青年派の境界にいるのがミシュレである。ミシュレにとって、いまの世界の問題はヘーゲルの「精神の哲学の枠内で解決可能と思われた」。だから、ミシュレは人間と神との宥和を現実にまで高め、それによっていっさいの生活関係にヘーゲルの原則(みな国家やキリスト教の中で自己を見つけること?)が可能となったとされる。

 老年ヘーゲル派は哲学のあり方をみなヘーゲル哲学に基づいて解釈している。そして、ヘーゲルの宥和というものを前提として、少なくともヘーゲル哲学によって世界の問題は解決可能だと見る。だが、ヘーゲル哲学を転覆しなければ問題を解決しないと見たのが、マルクスをはじめとするヘーゲル左派である。